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土佐の宰相・野中兼山

野中兼山は何をした人物なのか

野中兼山終焉の地
野中兼山終焉の地
(高知県香美市中野)

 戦国時代が終わりを告げ、徳川時代が始まった17世紀初頭の土佐の多くは山林であり、これといった産業も無く、港や川の交通網も未発達でした。また、多雨な土佐では複数の急流な大河川が度々氾濫し、農業においても極めて生産性が低い土地でした。藩主は遠州掛川から土佐に入った山内家であり、いつ反乱するともいえぬ長宗我部遺臣(四国を平定した長宗我部家の家臣、「一領具足」と呼ばれる半農武士、「郷士」とも呼ばれた土着武士)たちをも統制しながら、土佐藩を発展させていくことが徳川幕府からも求められた初代藩主山内一豊の使命であったのです。

 2代目藩主山内忠義時代の1636年、奉行職として大抜擢を受けたのが若干23歳の兼山でした。兼山は剛毅果断な性格で南学者としても知られており、その儒教精神によって、奉行職を約30年間にわたり、その圧倒的手腕を発揮した。兼山は土佐藩内全域において、河川等堤防整備や新田開発のための堰や用水路建設、港湾建設など多方面に巨大土木プロジェクトを次々と完成させるとともに、殖産産業や林業を推進し、土佐の山、川、海をつなぐことでそれら物資の輸送を行い、高知城下や大阪に運び、土佐藩財政を浮上させるなど実利に繋がった経済的土木技術者であったのです。兼山の時代に灌漑面積は3,872haも増加した。

 このような功績や活躍が反対派閥や一部農民等の妬みとなり、3代目藩主忠豊により弾劾を受け、兼山失脚、その数ヶ月後に死去(1663年 享年49歳)しました。土佐藩は引き続き野中家一族にも厳罰を与え、男系が絶えるまで現在の高知県宿毛市に40年間にわたり幽閉したのです。生き残った娘・婉は医者となり、また兼山を弔って今の高知市筆山に墓所を建立しました。この婉の生涯を作家・大原富枝が小説「婉という女」で描いています。

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